あゆみ

奇蹟の殿堂・実証の超宗教

 神霊教は、昭和22年(1947)年2月11日、兵庫県西宮市で開教されました。
 以来、神霊教は、人々が真理・神の道に従って生きるとき、真の幸福と永遠の発展が得られることを、限りない奇蹟によって示し続けてきました。
 それゆえ、「奇蹟の殿堂」「実証の超宗教」とも呼ばれています。

神霊教本部

教祖様は、幼少から神童と呼ばれた

 教祖・大塚寛一先生は明治24年(1891)、徳島県でお生まれになり、幼少のころから神童と呼ばれ、和漢の書を次々と読破し、絵画、発明考案に天才的なひらめきを見せ、日本や世界の将来を予言し、大人たちを驚かせました。
 16歳で郷里を後にされた教祖様は、お生まれながらにして持つ偉大な御力を実際にお試しになるために、高野山、御嶽山など日本の深山霊場から、遠くは中国、旧ソ連、満州国境まで足をのばし、生来体得しておられた宇宙の真理を確認されたのです。

 教祖様は、大正10年(1921)、約10年間の大陸行を終えて帰国された後、大阪で電気事業を興して人々の生活向上に貢献し、4年間で60を超える特許を取得されました。
 この電気事業の創業に時を接し、教祖様は教母・大塚国恵先生を生涯の伴侶としてお迎えになりました。神縁かしこき家系にお生まれになった教母様は、幼少のころから「人助けをする人になりたい」との思いを抱いておられ、教祖様の御神力による万民救済の道が開かれることを願うようになりました。

教祖様が発明されたアイロン

言論統制厳しい中、建白書を

 昭和前期、日本も軍部が台頭し戦争への道を進もうとしていました。
 教祖様は事態を深く憂慮され、昭和14年9月以降、政府要人、宮内省関係者、参謀本部、軍令部の人々、陸海軍の少将以上、そして大政翼賛会等の指導者層に、毎回千余通の「大日本精神」と題する建白書をたびたび送付、国策の誤りを警告し、不戦必勝の大策を示されました。
 言論統制厳しく、弾圧を受けた人々が多いなか、教祖様・教母様は逮捕も投獄もされずに堂々と正論を説き続けられたのです。
けれども、時の指導者の多くは戦争への道を選び、昭和20年8月15日、未曾有の敗戦を喫しました。

指導者に警告した建白書

開教により、人々を救済

 戦後、国内は混乱し国民は塗炭(とたん)の苦しみを味わっていました。このような状況下、教祖様の御神徳をだれよりも深く感得しておられる教母様の再三にわたる祖国再建と救世救民の御懇請をいれられ、教祖様は神霊教を開教されたのです。
 以後、神霊教の沿革には、変遷とか移り変わりということがありません。開教以来、一貫した教えを説き、発展を続けてきたからです。

昭和22年 西宮で開教

 昭和27年には東京に進出し、翌28年には、現在本部のある赤坂霊南坂上に東京支部が開設されました。
 そして、昭和30年には、東京都医師会の代表団が調査に訪れ、あらゆる難病が医薬に頼らず全治し、また快方に向かいつつある事実を確認。「疑う余地なし」と、神霊教の奇蹟現象を認めざるを得ませんでした。

教祖様(中央)と教母様(左側奥)と
東京都医師会代表者

日本精神の復興に向けて

 日本は敗戦から奇蹟的な復興を遂げ、経済成長の道を歩みました。しかし、昭和40年代、70年安保をめぐって左翼革命運動が荒れ狂い、日本は再び混乱の渦中へと突き進むかに見えました。
 その嵐を静め、正しい道を人々に知らしめるために、教祖様は「日本精神復興促進会」を結成し、自ら先頭に立たれて、全国縦断講演会を通じて一大啓蒙活動を展開されました。
このことにより、日本は共産主義勢力による赤化を免れ、世界は核兵器による人類滅亡の最終戦争を回避することができたのでした。

理想世界への発展

 神霊教の活動は国内、海外に広く、また多方面にわたっています。教祖様・教母様が訪問されたアメリカやヨーロッパなど世界各地では、言葉の通じない人々の間にも数々の奇蹟が起きました。
 教祖様御神座後も、そのご意志を継がれた教母様の献身的なご活躍によって、各地に教会の建設が進められ、数々の奇蹟によって、人々を救済する活動を行っています。
 そして、神霊教は、教祖様の予言された「昼の時代」の到来を前にして、ますます発展を続け、神の教えを全世界に向けて発信しています。